公衆衛生と社会的対策の“無為無策”を、改憲議論にすり替え

──新型コロナ感染症と、どう付き合っていくか──
松本誠のメールマガジン

「新型コロナ」市民ジャーナル(13)2021.5.12

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 混乱のどさくさにつけ込んで、盗みを働くことを「火事場泥棒」という。緊急事態宣言の中、新型コロナ感染症が爆発的な猛威を振るい、医療崩壊が現実のものとなって医療を受けられないまま亡くなっていく人が続出している中で、「コロナのピンチをチャンスとして捉えるべきだ」と白昼堂々と語る政治家が横行する。これを火事場泥棒と言わずに、なんと呼ぶのか。
 憲法記念日の5月3日、改憲派の集会に出席した自民党の下村博文・政調会長は、自民党が掲げる「改憲4項目」の一つに挙げている「緊急事態条項の創設」に感染症対策を入れる動きを紹介した。これまでは大災害などのときに内閣が国民の権利を一時的に制限することを挙げてきたが、国民の悲痛な関心事であるコロナ感染症対策にもつけ込んで、改憲機運を盛り上げようという魂胆である。
 菅義偉首相もこの日、改憲派の集会に寄せた自民党総裁としてのビデオメッセージで新型コロナの感染拡大に触れ「新型コロナ対応で緊急事態への備えに関心が高まっている」として、緊急事態条項創設を含む改憲をめざす決意を表明した。
 政府のコロナ対策が「後手々々」「無為無策」と批判が集まっていることに対して、まるで憲法に「緊急事態条項」がないからだと言わんばかりの論法だ。現行憲法体制や現行法制度のもとでやれることが山のようにあるのに、この1年余「やらなかった」ことのすり替えそのものだ。

「日本ではロックアウトなどの強硬措置は取れない」は本当か?

 新型コロナ感染症が国内で広がりはじめた昨年2月以来、政府やメディア、一部の専門家などからも「日本は欧米のような都市ロックアウトなどの強硬措置は取れない」という”言い訳”が繰り返されてきた。本当にそうだろうか?
 新型コロナ感染症は、感染症法に規定された「指定感染症」である。国と自治体は「感染症発生の予防」と「感染症のまん延防止」のために、さまざまな措置を取ることが義務づけられている。さらには、感染症患者には適切な医療が受けられるように国と都道府県が措置を講じることも義務づけている。加えて新型コロナ特別措置法では検疫などの水際対策や予防接種、航空機や船舶の運行制限、医療者への要請措置を取ることや、緊急事態宣言下では「不要不急の外出自粛要請」や「臨時医療施設や無症状・軽症者向けの療養施設」の設置も義務づけている。施設や用地の強制利用も盛り込まれている。

 欧米などで行われてきた「ロックダウン」(都市封鎖)は、外出規制による「人の隔離」や「移動の制限」によって感染の拡大を抑制するものだが、国によってその中身は様々だ。
 政治体制の異なる中国では、パンデミック初期の武漢市に象徴されるように厳しい外出禁止や店舗の閉鎖、公共交通機関の全面停止などが行われ、徹底的な都市封鎖が行われた。しかし、欧米では「ロックダウン」と称しているものの、厳しいと言われるフランスでも「食料品や薬の買い出し」や「通院」「テレワークではできない仕事をするとき」「1回程度の散歩」などは認められている。原則禁止のイタリアでも外出時には証明書の携行を義務付けて生活上必要な行動を許容したり、米・英でも生活に必要な店舗の営業や買い出し等の外出は許容しており、不要不急の外出を抑えて感染機会を抑制する狙いは「不要不急の外出を要請」する日本と基本的には変わりない。

「公衆衛生」上の対処法として不可欠な「接触」と「移動」の制限、感染者の「隔離」

 個人の自由を縛らない、侵害しないという社会的規範は、日本よりも欧米の方がより熱心だ。それなのになぜ、欧米で人々の行動を厳しく規制、抑制する「ロックダウン」的な対応が長期にわたって取られたのかが、むしろ重要だ。感染症の感染拡大を抑えるロックダウン的措置は、医療的、公衆衛生的な対処方法を取るためにも不可欠であるからだ。
 日本でも昨年2月の感染拡大初期から「三密」という言葉が語られ、人と人の接触機会を抑制することが基本とされた。ワクチンなどの予防的措置が取れない間は、人と人の接触、人の行動を抑制するしかないのは、公衆衛生上当たり前のことと理解されてきたはずだ。問題は、ウイルスの強さや性質、感染の状況などに対応しての「接触と移動制限の程度」をどこに置くかという、医学的判断と政治的判断だろう。
 この国の感染対策は第1波のときも2波、3波のときも、医学的な判断ではなく、時の政権の政治的思惑によって左右されてきた。第1波の際は、安倍政権が習・中国国家主席の来日や東京五輪の開催を優先し、緊急事態宣言による行動規制などの感染対策の発動が遅れたことが批判された。その後の第2波、第3波では経済活動の抑制への配慮を優先し、GoToキャンペーンをずるずる続けてアクセルとブレーキを踏み間違える対応を重ねてきた。第3波では専門家らの指摘を無視して1カ月ほど対応が遅れた結果、年明けの爆発的感染の拡大を許した。
 さらには1月から3月にかけての緊急事態宣言時は、延期した五輪の開催決定時期が迫り宣言の解除に焦り、息つぐ間もなく第4派の爆発的感染にいま直面している。この期に及んでもなお、五輪中止を求める世論に抗して感染対策の基本に立った対応から逃げ回る醜い姿勢を、日々衆目にさらしている。パンデミック時の感染対策の基本である入国規制などの「水際対策」はインド、パキスタンなどからの入国規制に立ち遅れ、1年以上にわたって指摘され続けてきた「検査体制の強化と感染者の隔離」も手つかずというほどの状態が続く。そして、医療崩壊を避けるためのコロナ臨時病棟の建設にも手をつけず、感染対策の「決め手」とするワクチンは先進国で最下位の接種率で先が見えない。

「緊急事態条項」なしでも無数にできる感染対策、災害対策でも同じ“論法”

 現行法制度の下でもやれることが山ほどある感染症対策をやらずに、改憲による「緊急事態条項」を持ち出すのは、そもそもこの改憲条項を持ち出した際に理由とした「災害対策」でも同じだった。東日本大震災でも、阪神・淡路大震災でも、現行法制度でもやれることがたくさんあり、改憲による緊急事態条項を創設するまでもなく現行法の改正や災害対策基本法の強化、災害復興法の創設など通常の法改正等で迅速に対応できることがたくさんあることが指摘され、具体的な提言、提案もされた。こうしたことに目を向けず、いたずらに改憲議論を煽るのは、自然災害対策や感染症対策に関心があるのではなく、「改憲」の名のもとに治安維持的な別の目的を秘めているからにすぎない。
 災害対策も感染症対策も、事態に直面している中で可及的速やかに対応が迫られている。まずは、現行制度の下でやれることをやり切ってから、その検証の上に立ってさらなる対応の是非を考えるのが筋道だろう。

感染爆発と医療崩壊、在宅死の急増は、政府の無為無策による“人災”ではないか

 感染症対策は、公衆衛生的な感染防止策、治療と治療薬の開発、ワクチンによる感染予防の三本柱が基本になる。
 しかし、日本政府がとってきたこの1年余の感染防止策はマスクと手洗い、外出と営業の自粛を要請するだけで、感染者を見つける検査体制が未だに不十分なまま、感染者を隔離して感染拡大を防ぐ対策は爆発的な感染拡大の中では無策に等しかった。感染者の隔離を法で定めながら、入院・療養施設の整備と確保を怠り、自宅待機を強いる中で家庭内感染を野放しにして、入院・治療を受けられまま「在宅死亡者」を続出させている。
 第1波、第2波の検証もしないまま、もはや「政権維持の政治利用」でしかないオリンピックに執着し、感染対策よりも経済優先に流れる政治の転換なしには、この先も“コロナ地獄”から逃れられない。